2013年4月30日火曜日

顕界の力学。

今日は外出せず、必要品の買い足しのため
近所を回っただけなのであまりネタが無いです。(´`)

とりあえず、今日描いてたらくがきを
羅列してみます。





で、ニュースウェブ24 で
今日はアベノミクスについて
特集が組まれていた。

この番組はツイートが画面下に流れる
「視聴者参加型番組」の典型だけど、
視聴するたびに思う事が色々ある。

1つは「ツイートも全てが採用されて
画面上に流れるわけじゃない。」という事。

これは「今日は採用されてよかった。」という
ツイートが流れたのを見た事があるので
「あっ、そうなんだ。」と気づいた。

…まぁ、ここで気付くようじゃ我ながら遅いよね。w

こうした流れ行くツイートを読んだり、
画面内で論議をしている論客や
アナウンサーを見ながらいつも思うのは
「世間というもののヒエラルキーと
世間でのそれに対する認識の程度について」という事。

実際、俺の目から見ても
「この人、相当事情通で分かってる人だな。」とか
「単に採用されて自分のツイートが
 画面に出る事に躍起になってるだけの人だな。」とか
「落ち着いてその時に自分が思った通りの事を
 等身大で述べてる人だな。」とか
いろんな見識(実力)の程度、投稿者の意図や感情が見て取れる。

ネットの上だと、現実の世界の距離や場所の違いを
無視して寄り集まれる関係で、
本来は場所ごとに限定されて各々のコミュニティー内で
生成される「ヒエラルキー」が垣根を取り払われる。

これによって「その人の実際の力量」や
「演出力」という部分のみで
勝負できる土壌が生成されている。

もう少し纏めると「表現の誇張の上手さ」次第で
「神掛かった人物像」を相手に抱かせる事もできるし、
自身の実力の程度を公表して
それが現実の世界でもそれ相応に
評価される程度の力量であれば、
良いマーケティング媒体になり得る…という事。

現実の人間関係だと、もっと「生っぽい」部分の情報が
色々とあるので、そういう部分により
ネット上では顕著なそれらの特性に抑制が働き、
良い意味でも悪い意味でも「生身の付き合い」の「味」に
なっているのは確かだと思う。

あとは、そういう意識をしてる人も
してない人もいると思うけど、数段落前の
「本来は場所ごとに限定されて各々のコミュニティー内で
生成される「ヒエラルキー」」というものが、
現実世界における「ミクロなコミュニティの構成単位」で、
大小のそれが集まったものが世間・世界であり、
「マクロなコミュニティ」となっているという構成事実がある。

…とまぁ、語り口の冒頭で「1つは…」と
小柱を立ててみたものの、
ズルズルと色々な部分に言及してしまっているな。w

大学の時に教授から
「君の論文はあちこちに話が飛んでいて、とても読み辛い。」と
苦言を呈されたのを思い出す。w

今日書いたことで
何を言いたいかと言えば、

「元々、人は守ったり受けたりするよりも
 攻める方が得意なケースが殆どだ。」

「攻める力とは、すなわちその人の能力により左右される。」

「今の世の中は余裕が無い(なぜそうなのかは割愛w)ため
 皆が自身を物質的・時間的・心理的に成り立たせるために
 お互いの余裕を奪い合って生きている。」

「基本的に相手に対して余程観察した上で気遣いをするか、
 相手の受け入れ易い形での非干渉の立場を取るしか
 相手の余裕を全く削らないで居られる方法は無い。」

「現実とは分析・観察・研究してもし尽くせないものである。
 万人から見て、多くの場合、現実そのものだと認知できる程度まで
 物事を解釈してそれに沿って事象に対処すれば、
 多くの場合「大したものだ」と万人から評価される。
 しかし、その過程は大変な気苦労や能力・経験などが要求されるため、
 殆どの場合「打ち切り」的な感じで「諦め」られて、
 ステレオグラム的な表現や対応方法、
 怒りや無関心な態度などを取られる事で
 対象者が満足しないままに終わる事が殆どだ。
 逆に人から認められたり、成果を十分に挙げる人というのは
 それらの工程を真っ向から受け止めて、
 1つ1つ、つぶさに対応する事を諦めずに続けた人である。」

…他にもあるんだけど、
なんだか書いてて疲れてきた。w

ふぅ。。(´・ω・`;)ゞ

人の世っていろいろ大変だよね。
だから面白いってのも多分にあるけど。w

今日のは読んでて疲れる内容を書いたな。w
まぁ、いいか。w

では、この辺で。ノシ

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